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「八重の桜」を訪ねる 新島八重のふるさと 会津

第4回 会津魂を貫いた女たち

白虎隊の少年たちが城下の火事を落城と勘違いして飯盛山で無残な死を遂げた頃、城下では女たちが凄絶な戦いを繰り広げていました。

運命の慶応4年8月23日。政府軍が押し寄せた若松城下は、逃げ惑う人々であふれ、大混乱に陥りました。籠城の覚悟で藩士が城に向かう一方、取り残された家族の中には、足手まといにならないように自ら命を絶った者も大勢おり、この日だけで230余人にのぼりました。

そんな中で八重は、城内での負傷者看護や炊事、弾丸の製造のために入城。一方、城内に入れなかった藩士の妻や母などは、婦女隊を結成し義勇軍として戦いました。
八重は鳥羽・伏見の戦いで亡くなった弟・三郎の敵を討つ決意で、黒髪を切って男装し、両手に刀、肩に最新式スペンサー銃を担いで銃撃戦に参加。自らも被弾しながらも、八面六臂の活躍をします。女としてただ一人、夜警隊に加わり敵に斬りこんだり、敵の侵入を防ぐために北出丸の石垣から大石を落としたり、さらに場外に出て敵陣地を襲撃。また夫・川崎尚之助とともに砲撃も行いました。


男勝りの行動力で戦った八重でしたが、誤解をする者もいました。
当時は銃による戦い方が理解されず、前線に参加していないと思われたのです。会津若松の涙橋で婦女隊と新政府軍が直接対決し犠牲者を出したとき、戦死した中野竹子の母は八重を卑怯者だと詰め寄ります。八重は冷静に太刀の限界を話し、銃の威力を説明します。竹子の母は考えを改め、八重から銃の手ほどきを受けたのでした。


後年、そんな八重に与えられた異名は、日本のジャンヌ・ダルク。まさに大義のために粉骨砕身、戦場で働いたのでした。

鶴ヶ城~武者走り
鶴ヶ城~武者走り

鶴ヶ城の太鼓門(大手門)へとつながる渡り櫓につながる階段。
太鼓門の上に兵が昇降する際、刀や槍がぶつからない様に、それぞれを一方通行にした。V字に造られ、鶴ヶ城の特徴的な石垣のひとつ。
鶴ヶ城~南走長屋と鉄門・干飯櫓

鶴ヶ城~南走長屋と鉄門・干飯櫓

干飯櫓は二重櫓になった食料庫で、城内にあった十一の二重櫓の中で最大。
干飯櫓と天守閣を結ぶ通路が武器を保管していたのが、南走り長屋。
表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあり、本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていた。

会津藩殉難烈婦碑
飯盛山~会津藩殉難烈婦碑

籠城戦で足手まといにならないように自刃した西郷頼母一家、娘子隊として敵と戦い戦死した中野竹子など、婦女子200余名の霊を弔う碑が、飯盛山の白虎隊の墓のそばにある。



合言葉は、「照姫様のために!」

圧倒的な劣勢が伝えられても、城内の女たちがひるむことなく最後まで戦い続けられたのには、照姫の存在がありました。

照姫は、会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女で、藩主・松平容保の姉。美しいばかりか芯が強く教養にあふれ、容保をよく支え、控えめながら藩内でも厚い人望がありました。


会津戦争では、若松城内で六百人余の女性たちを陣頭指揮。負傷者の救護や炊き出しに自らまわりました。
戦況が激しくなると、大奥の一部を病室として提供し、高貴な衣装を裂いて包帯として使わせたといいます。

また、飛来した砲弾が破裂する前に濡れ布団や鍋で覆う「焼玉押さえ」を率先して行い、書籍や帳簿などから薬筒を制作しました。
そんな照姫の勇気ある自己犠牲の姿を見て、女たちは「照姫様のために」を合言葉に戦い続けたのでした。

照姫の墓
滝沢本陣

(松平家墓所、会津若松市東山町大字石山字墓山 )
東山温泉街の入口の山腹に築かれている院内御廟。
2代目から9代目の会津藩藩主とその親族が、東西500mを超える広い山原に眠る。
閑静な森の中に佇む墓所は、国の史跡にも指定されている名所で、新緑や紅葉の時期に散策をかねてのお参りをする人も多いスポット。
波乱の生涯を送った照姫は、容保公墓所の隣、松平家の墓所に眠っている。
悲惨な西郷頼母一族の自刃


会津戦争最大の悲話として白虎隊のエピソードと同様に語り継がれているのが、西郷頼母の一族21名による自刃です。


西郷頼母は筆頭国家老で、国内情勢を照らし合わせて容保の京都守護職辞退を進言。容保の怒りを買い、家老職を解任された上に、蟄居させられました。その後、戊辰戦争の勃発によって家老職復帰。新政府への恭順を提案しましたが聞き入れられず、多くの会津藩士は徹底抗戦を主張する中、卑怯者の恭順派とみなされました。


8月23日、頼母は戦場に赴き不在でした。頼母の妻・千恵子は藩内で阻害されている夫の立場を受け止め、入城することなく自邸に留まりました。そして籠城戦の足手まといになることを苦にして、一族もろとも自刃。その中にはわずか幼子や老人も含まれ、凄絶な最期は敵である土佐藩士の涙を誘ったといいます。

次のような辞世の句を遺し、千恵子は懐剣で自らの喉を突いたと伝えられています。
 「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬふしは ありとこそきけ」

西郷頼母邸 (復元) 
戸ノ口堰洞穴

(会津武家屋敷、会津若松市東山町大字石山字院内)
戊辰戦争で焼失した武家屋敷のうち、追手町にあった約4000坪の面積、けやき・ひのき・杉材を使った和様建築の西郷頼母邸を復元。

国家老の往時の権勢を伝える広大な邸宅内には、頼母一家の自決シーンも再現されている。
西郷頼母邸跡 
白虎隊士の像

(会津若松市追手町)
西郷家は藩祖以来の重臣で、戊辰戦争の際は国家老西郷頼母近悳(ちかのり)が当主。
頼母は朝廷への恭順を進言するが、容保公から怒りを買い、家老職を解任。戊辰戦争で家老職に復帰するが、藩内では微妙な立場に立たされ、「白河口の戦い」で敗れるなど辛酸を舐めた。
西軍が城下町に乱入したとき、家族ら21人は屋敷の中で辞世の句を残して、壮絶な最期を遂げた。

会津ものしりメモ

会津絵ろうそく

会津唐人凧


会津唐人凧の中でも"ベロくん出し"と呼ばれるこの凧が、鶴ヶ城籠城戦の際に鶴ヶ城の本丸から、降りしきる砲弾の雨の中を空高く舞い上がった。味方の将兵の士気を鼓舞するとともに、敵兵に「まだ余裕がある」と思わせたという逸話が残っている。

会津最古の商家建築でもある老舗「竹藤」は、寛永元年(1624年)創業。唯一の「会津唐人凧」製作元。

大河ドラマ衣裳考証 小泉清子

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