「八重の桜」を訪ねる 新島八重のふるさと 会津
八重を知るには、山本覚馬の存在を抜きには語れません。
覚馬は文政11年(1828)生まれで、八重より17才も年上の実兄。9才で藩校・日新館に入学してめきめきと頭角を表しました。武芸全般に秀で学問も優秀であったため、25才の時に江戸に遊学が許され、当時としては最先端の学問である蘭学や洋式砲術を学びました。
ペリー来航直後の江戸の空気を吸い、佐久間象山や勝海舟と交流を持ったことが、それまで会津藩一藩だけの考え方から、覚馬の中に国家意識や国家感を芽生えさせました。
3年間の江戸遊学を終えて覚馬が帰国したのは八重が十二才のとき。新しい知識を身に付けた逞しい兄を、どんなにか八重は誇らしく迎えたことでしょうか。覚馬は日新館の教授に任命され、会津藩としては初の蘭学所を日新館内に開設。さらに兵制改革を進言するなど、保守派の多い会津藩で覚馬は開明的な人物として知られています。
覚馬は文政11年(1828)生まれで、八重より17才も年上の実兄。9才で藩校・日新館に入学してめきめきと頭角を表しました。武芸全般に秀で学問も優秀であったため、25才の時に江戸に遊学が許され、当時としては最先端の学問である蘭学や洋式砲術を学びました。
ペリー来航直後の江戸の空気を吸い、佐久間象山や勝海舟と交流を持ったことが、それまで会津藩一藩だけの考え方から、覚馬の中に国家意識や国家感を芽生えさせました。
3年間の江戸遊学を終えて覚馬が帰国したのは八重が十二才のとき。新しい知識を身に付けた逞しい兄を、どんなにか八重は誇らしく迎えたことでしょうか。覚馬は日新館の教授に任命され、会津藩としては初の蘭学所を日新館内に開設。さらに兵制改革を進言するなど、保守派の多い会津藩で覚馬は開明的な人物として知られています。
素読、弓・馬・槍・剣の武術が必須科目で、礼法や書学、数学、天文学、医学を学ぶことができた。
会津市内に残っている天文台のほか、水練場(プール)や印刷所などもあった。
洋式砲術の演習を行うために、覚馬は日新館に射撃場を造った。
幼い頃から武芸を好んだ八重は、覚馬の一挙手一投足に目を凝らし、一つでも多くのことを吸収しようとしていました。その覚馬の口癖が「ぶるな」「がるな」「らしくなせ」でした。今風に言えば、自然のままありのままでいるということです。苦手な裁縫や薙刀を身に付ける一方で、砲術に励む妹を諌めるどころか積極的に教えたのも、八重の才能と気質を覚馬がよく理解していたからなのです。
覚馬は、義に厚く、不正を憎む豪気な性格であったと伝えられています。まさに八重の理想の男性像で、八重の結婚にも大きな影響を与えています。
八重の最初の夫・川崎尚之助は有能な洋学者で、覚馬と共に日新館で教鞭をとっていました。覚馬の引き合わせで八重と結婚しますが、戊辰戦争の頃に離別。また二度目の夫・新島襄はアメリカ帰りの教育者で、キリスト教系の学校設立を覚馬が支援した縁で八重と出会っています。
八重の最初の夫・川崎尚之助は有能な洋学者で、覚馬と共に日新館で教鞭をとっていました。覚馬の引き合わせで八重と結婚しますが、戊辰戦争の頃に離別。また二度目の夫・新島襄はアメリカ帰りの教育者で、キリスト教系の学校設立を覚馬が支援した縁で八重と出会っています。
大内宿(福島県南会津郡下郷町大字大内)
南会津の山中にある大内宿は、会津城下と下野の国(日光今市)を結ぶ会津西海道の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。戊辰戦争では戦場となりましたが、難を逃れ、全長約450mにわたる寄棟造茅葺きの民家が、江戸時代の会津地方の雰囲気を今に伝えています。重要伝統的建造物群保存地区。