「八重の桜」を訪ねる 新島八重のふるさと 会津
弘化2年(1845)、会津若松米代四ノ丁にある一軒の家で元気な女の子が生まれました。その潔い生き様で、後に「ハンサムレディ」と称えられた新島八重です。
父は会津藩砲術師範を務める山本権八、母は佐久。6人兄弟のうち長男・覚馬と弟・三郎以外は早世しています。 八重の生家は、鶴ヶ城の掘割を隔てた路地の奥。
近くには藩校・日新館もあり、一帯は中級武士の家が軒を連ねていました。現在は住宅街となった生家跡地には、ひっそりと石碑が建つのみで面影を偲ぶものは遺されていません。
父は会津藩砲術師範を務める山本権八、母は佐久。6人兄弟のうち長男・覚馬と弟・三郎以外は早世しています。 八重の生家は、鶴ヶ城の掘割を隔てた路地の奥。
近くには藩校・日新館もあり、一帯は中級武士の家が軒を連ねていました。現在は住宅街となった生家跡地には、ひっそりと石碑が建つのみで面影を偲ぶものは遺されていません。
八重は活発で男勝りなところがあり、男の子に混じって相撲を取るなど、泥んこになって遊んでいました。なんと、13歳の頃には60キロもある米俵を4回も肩まで上げ下げできたというエピソードまであります。
また江戸で洋式砲術を学び日新館で蘭学所を開設していた兄・覚馬から洋式銃や大砲の手ほどきを受けました。その一方、幼馴染の祖母から裁縫を習うなど、女らしい一面もありました。八重が施した刺繍を見ると、なかなかの腕前だったことがわかります。
八重は当時としては大変個性的な育ち方をしていますが、それは母・佐久の進取に富んだ気質の影響が大きいと思われます。佐久は、会津若松城下に天然痘が大流行したときには、まだ一般的でなかった種痘の必要性を説いてまわり、率先して子供たちに種痘を受けさせたといいます。体面よりも実を取る合理的な考え方は、八重の生き方と重なります。
また江戸で洋式砲術を学び日新館で蘭学所を開設していた兄・覚馬から洋式銃や大砲の手ほどきを受けました。その一方、幼馴染の祖母から裁縫を習うなど、女らしい一面もありました。八重が施した刺繍を見ると、なかなかの腕前だったことがわかります。
八重は当時としては大変個性的な育ち方をしていますが、それは母・佐久の進取に富んだ気質の影響が大きいと思われます。佐久は、会津若松城下に天然痘が大流行したときには、まだ一般的でなかった種痘の必要性を説いてまわり、率先して子供たちに種痘を受けさせたといいます。体面よりも実を取る合理的な考え方は、八重の生き方と重なります。
麟閣
鶴ヶ城の本丸内に茶室、麟閣。千利休の子、少庵が建てたといわれる建物を復元したもの。
鶴ヶ城の本丸内に茶室、麟閣。千利休の子、少庵が建てたといわれる建物を復元したもの。
会津木綿
約四百年の歴史がある会津木綿。会津藩主蒲生氏郷公が、産業振興の為に綿花の栽培を奨励され、木綿を織ったことに由来します。
厚地で丈夫、さらに肌合いが良く、保温性、吸汗性があるため、主に日常着や野良着に使用されました。白虎隊や野口英世も少年時代には、会津木綿を着ていたと思われます。