第3回上杉家の再興を夢見た米沢
織田信長の死は、群雄割拠の戦国の世で秀吉の台頭の契機となりました。天下平定を願う景勝は、秀吉からの同盟の誘いを受け入れ天下統一に貢献します。関白となった秀吉は景勝に上洛を要請し、それに応えることによって秀吉と上杉家との結びつきはますます強まりました。兼続もまた豊臣政権との交流を得て、ゆるぎない地位と名声を手に入れました。
しかし、晩年の秀吉は朝鮮への大儀なき侵略を行って配下の信を失い、徳川家康などの不満分子を押さえ込むこともできなくなっていました。豊臣政権が崩壊の一途を辿る中、景勝は関東・東北支配の拠点として会津120万石に国替えとなり、そのうち30万石を兼続に与え、兼続の指揮のもと、城や道路の整備など国造りを進めました。
ところが周囲の大名はこれを脅威とうけとり、上杉謀反の疑いありと家康に注進したのでした。長年の確執から上杉討伐の機会を狙っていた家康は、申し開きのために上洛するよう促す書状を送りつけます。これに対し兼続は上杉の気骨を示す「直江状」で正々堂々と反論しました。当然のことながら家康は激怒し、上杉討伐のために10万余りの兵を差し向けました。しかし、石田三成挙兵の報がもたらされると、家康は即座に引き返し、関ヶ原の戦いへと突入したのでした。
秀吉に愛された知将
秀吉が最も信頼し厚遇したのが、義に厚い景勝と兼続であったといわれています。また学問を尊敬し、当代一流の高僧たちと親交を深めた文化人としての兼続の素養に、「天下の知性を任じ得る人物」として、その人品を武士の典型として絶賛。「身近におきたい」と切望するほど兼続に惚れ込み、兼続に豊臣の姓を与え、自らの家臣にしようと申し出ましたが、兼続は景勝への忠義を貫き断りました。
兜の前立てに「愛」の一文字
終生、義と愛を貫いた兼続の信条を象徴する「愛」の前立て。これは戦勝の神といわれる愛宕権現や愛染明王に由来するという説や、「愛民」「仁愛」の心を示すものという説があります。戦国時代の武将たちは戦いのときに頭を防御するという実用面だけでなく、自らの信仰や美学をこめて様々な前立てを選んでいます。たとえば、上杉謙信の「三宝荒神」、上杉景勝の「卍」、伊達政宗の「三日月」など個性豊かなものがありました。
愛の前立て(レプリカ)/米沢市上杉博物館
直江状
秀吉の死後、虎視眈々と天下取りを狙っていた徳川家康は、足並みが乱れてきた豊臣政権に揺さぶりをかけます。まず謀反の疑いありと前田家を窮地に追い詰めて屈服させました。その頃、景勝と兼続は新領地である会津に新城を建設するなど、領地の守りを急ピッチで固めていました。上杉家を逆恨みする伊達政宗らは、それを反逆の動きであると家康に密告。上杉家を服従させたい家康にとっては、まさに渡りに船でした。家康は景勝に至急上洛し、事の次第を弁明するように求めます。その書状に対し兼続が反論して書いたのが、直江状です。さらに兼続は領国統治を理由に上洛を断固として拒絶するばかりか、家康の脅しに対し、理解いただけないのならば一戦交わるのも辞さないとの決意をも窺わせています。やがて兼続のこうした「義」の精神は、関ヶ原の戦いへと時代の歯車を動かしていくのでした。
「直江状写」 写真提供/米沢市上杉博物館
関ヶ原の戦い
直江状は、家康にとっては好都合でした。早速、12万の東軍を率いて会津征伐のために出陣。それに対して軍師・兼続は万全の迎撃体制を整え、徳川の軍勢を待ち構えました。ところが、家康のもとに三成挙兵の一報を受け、進撃を中止し、即座に退却したのです。そして三成の西軍と徳川の東軍は関ヶ原で戦い、僅か一日で敗退します。破竹の勢いで東軍を打ち破っていた兼続でしたが、西軍の敗北を知ると、急遽、米沢に撤退しました。被害を最小限にとどめた見事なまでの退却戦は、上杉の武名を轟かせ後世まで語り草になるほどでした。
兼続と戦国のかぶき者
少年期に雲洞庵で高僧からさまざまな学問を授けられた兼続は、上杉謙信からは武人としての嗜みを学び、また京では千利休をはじめ当代一流の学者や文人と交流することで、すぐれた人間性と教養を身につけました。兼続は和歌や漢文の才にも秀でた風流人でもあり、現在、蔵書の一部は国宝に指定されているほどです。そんな兼続を理解し、生涯の友と言われたのが、前田慶次です。慶次は、類稀なる文武の才能を持ち、前田利家の甥という名門に生まれながら、その奇行から戦国のかぶき者といわれました。兼続の豊かな教養を敬愛し、親交を深め、上杉景勝に仕官。兼続の与力として関ヶ原の戦いに参戦し、活躍しました。晩年、慶次は米沢の堂森山で「無苦庵」を結び悠々自適に暮らしたといわれ、そのほとりにはいまもこんこんと清水が湧き出る「慶次清水」があります。
■堂森善光寺 米沢市万世町堂森山下375
舘山公園から見た米沢市街地、中央の緑地は、上杉家御廟所、右が上杉神社
減封されて米沢へ
家康率いる東軍の勝利によって、上杉は存亡の危機に立たされます。景勝は家康に謝罪。本来ならばお家取り潰しとなるところを、兼続の機転と尽力によって最悪の事態を免れて4分の1に当たる禄高の米沢30万石への減封で済みました。武士としての対面よりも、兼続は上杉家の安泰を第一に行動したのでした。「義」を重んじた兼続の心を汲んで、越後以来の家臣や職人なども米沢に移住したのでした。当然、財政は逼迫しますが、兼続は同行を希望する者すべての雇用を保証し、そのかわりに禄高は3分の1に減俸。それでも家臣らの結束は固く、懸命に新天地での国造りに挑みました。
米沢城祉・松岬公園
慶長6年(1601)、景勝が城主となった米沢城があったところ。敷地内には上杉謙信を祭神とした上杉神社、景勝や上杉鷹山、兼続らを祀った松岬神社、上杉ゆかりの重要文化財を収蔵する稽照殿などがあり、周囲を錦鯉の泳ぐ濠が囲んでいます。
上杉神社 |
稽照殿 |
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■米沢市丸の内1-4-13 |
■上杉神社境内 |
謙信公像 |
松岬神社 |
鷹山公銅像 |
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■米沢市丸の内1-1 |
米沢藩を立て直した第9代上杉治憲こと鷹山公の銅像が着用しているのは、直江袴といわれる兼続考案の実用的な袴。 |
直江屋敷跡
現・主水町のあたりに直江兼続の屋敷があったとされます。
■米沢市城南1-1
直江石堤
兼続の指揮で松川左岸に治水のために造った堤防。農業用水が不足を補うために、兼続は堰や用水路の建設に力を注いぎました。
原方衆
東原・南原には城下に収まりきらなかった下級家臣団が住んでいました。原方衆と呼ばれた彼らは半士半農の生活をし、有事の際には防衛に当たるように配置されていました。現在も、芳泉町には往時を物語る家や生垣が残されています。
ウコギの垣根
植物や薬草、農業に関する知識が豊富だった兼続は、庭に栗や柿、梅などの果樹を植えることを奨励。また飢饉に備え、葉や芽が食用になり、根や皮が強壮剤となるウコギを垣根に植えるように指導しました。
■米沢市芳泉町
掘立川
兼続が開削させた川。有事の際は川を堰き止め濠とすることを想定していました。夏には精霊流しも行われます。
法泉寺/文殊堂・庭園
上杉景勝が創建。景勝はこの地に藩士の教育を目的に「禅林文庫」を開設しました。庭園は京都・天竜寺を模したと伝えられる米沢の名園。
■米沢市城西2-1-4
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