謙信の教えを受け継いだ地・上越
上杉謙信が30年余り居城とした春日山城は、標高180メートル、東西2キロ、南北1.3キロに及ぶ中世の典型的な巨大山城です。山頂からは遥か日本海や高田平野一帯が見渡せ、天下の名城と謳われました。この地を拠点に謙信は関東、信濃、北陸へと出陣し、2度の上洛を果たしました。戦乱の日々を送った謙信ですが、領土的野心で戦うことはなかったと伝えられ、「義」に篤い高潔な人物像が今に伝わっています。
景勝17歳、兼続12歳の時、二人の身の上に大きな転機が訪れました。生涯独身を通した謙信が、跡取りとして甥である景勝を養子に迎え、二人は坂戸から春日山城に移り住むことになりました。当時、春日山城では謙信の指揮のもと、城内の有望な青年を集めて兵法や戦場での心構えなどを教える独自の教育システムがあったといわれています。景勝とともに兼続にはさまざまな薫陶を受ける機会が豊富にあったと想像されます。多感な兼続は謙信のそばに仕え、謙信の生きざまを見ながら、その精神を継承していったに違いありません。
天正6年(1578)、脳溢血で謙信が49歳の若さで急逝すると、謙信の2人の養子である景勝と景虎による壮絶な跡目争い「御館の乱」が起こりました。景勝軍はいち早く春日山城の実城(みじょう)(本丸)を占拠し、甲斐・武田との和睦により勢いを得て、景虎軍が立てこもる御館に総攻撃をかけて勝利します。これによって景勝は反勢力を制圧し謙信の正当な後継者として実権を握り、越後を平定しました。その背後には兼続の巧みな戦略と行動力があったことは言うまでもありません。
しかし、家柄や家格の低い兼続の活躍は旧来の家臣にとって必ずしも歓迎すべきものではありませんでした。一部の間で御館の乱の論功に不満がくすぶる中、重臣の直江信綱が惨殺されました。直江家は藤原鎌足を祖とする名門で、上杉三代に仕えていました。景勝は直江家の断絶を惜しみ、兼続を直江家の婿養子として信綱の妻お船を娶らせました。これによって兼続は与板城主となり、類まれなる実力を存分に発揮できる家格を手に入れたのでした。
上杉謙信とは…
亨禄3年(1530)、越後守護代・長尾為影の末子として春日山城に生まれ、7歳から14歳まで林泉寺で育ちました。19歳で春日山城主となり、卓越した戦術で越後統一、信濃や関東、北陸への出兵など、戦乱の日々を送り、“越後の虎”と恐れられました。その一方、河川改修を推し進め米の生産量を増やし越後上布の生産を奨励、また当時の東西海上交通の要衝であった直江津などの主要港で入港税(船道前)を徴収したほか、金山を開発するなど経済発展にも力を入れ、軍事力と経済力を併せ持っていました。謙信が毘沙門天を崇拝し、生涯独身の誓いをたてていたことはよく知られています。謙信は49歳で死去するまで自国の領土拡大のための戦はせず、“利”ではなく“義”を行動の指針とした、戦国時代には珍しい名将で、領民からも慕われました。この像はNHK大河ドラマ「天と地と」放映の折に造られたものです。
春日山
標高189mの小高い山が、上杉謙信の本拠地となった春日山城でした。天然の要害を持つ難攻不落の城と言われ、東西2キロ、南北1.3キロに及ぶ巨大な山城でした。曲輪、土塁、堀、門、大井戸、道路などが残り、上杉景勝や直江兼続の屋敷跡などもあります。また山頂の天守閣跡、本丸北の毘沙門堂、二の丸跡からも往時をしのべます。山頂からは頚城平野と直江津港、日本海が眺望できます。そのほか山腹には上杉謙信を祭神とする春日山神社、山麓には謙信が育った林泉寺があります。
◆新潟県上越市大豆
北陸自動車道「上越」ICより15分
JR信越本線「春日山」駅より徒歩で30分、北陸本線「直江津」よりバス
春日山神社
山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社。明治23(1890)年に、童話作家・小川未明の父小川晴明が、日本近代郵便の父・前島密らの援助によって創建したといわれています。境内に隣接する春日山神社記念館では、謙信公の遺品・資料などを見ることもできます。
千貫門跡 |
本丸跡 |
御成街道 |
景勝屋敷跡 |
お花畑
城内の各御堂に献じる花や薬草が栽培されていたとされています。兼続は農業や医学にも関心が高く、戦乱の世を生き抜く知恵として薬草の栽培にも力を入れていたのではないでしょうか。毘沙門堂より北へ一段降りた場所にあり、東に降りると直江屋敷がありました。
直江屋敷跡
御館の乱の功により弱冠22歳で上杉家の家老になった兼続は、景勝の命を受けて与板城主直江景綱の娘お船の婿として直江家に入り、断絶の危機に合った直江家を継ぎました。これによって兼続は才能と実力だけでなく名門の家柄も手に入れることができました。兼続の屋敷跡からは頚城平野や見渡せ、土塁や空堀が残っています。
毘沙門堂
謙信は自らを毘沙門天の化身と信じ、篤く信仰し、春日山城にも毘沙門堂を建て、祈りを捧げました。軍旗に「毘」の文字をはためかせ、朝廷と幕府の守護神として北方地域の平安に努めようとしたといわれています。本丸跡の北側には護摩堂、諏訪堂、毘沙門堂などが並んでいました。現在の毘沙門堂は昭和6年に復元されたもので、本来はやや奥まった場所にありました。
日本海に沈む夕日が美しい直江津海水浴場
奈良時代から「水門(みなと)」と呼ばれ、東西日本を結ぶ水運の拠点として越後府中文化の華が開いた直江津は、直江家発祥の地。
戦国時代、越後の政治経済、文化を担った越後府中(現在の上越市)は、春日山城下と合わせて京都に次ぐ人口を誇ったといわれています。
林泉寺
約500年前、謙信の祖父・長尾能景によって建立された曹洞宗の寺。謙信は7歳から14歳までこの寺で文武を学び、天室光育(七世)の指導を受け仏道に励みました。謙信を継いだ景勝が慶長3年(1598)に越後から会津120万石に移封となり、同6年には米沢30万石に削封、菩提寺の林泉寺もこれに伴って米沢に移る一方、当地にも残りました。謙信が寄贈したといわれる惣門が厳かな雰囲気を漂わせています。
■上越市中門前1丁目1-1
長岡市与板
与板城
中越の長岡市与板、西山丘陵のほぼ中央に与板城はありました。104メートルの山頂に本丸があったほか、のろし台の跡や馬場、射撃場跡などが往時を物語っています。竹林や杉木立の中を登り口より約15分で山頂に至ります。
兼続が与板城を居城としたのは、米沢移封までの17年間。景勝の執政となり手腕を発揮する兼続を支えたのは、121名の与板衆と呼ばれる家臣でした。兼続もまた城下の農工、商業の発展に力を尽し、与板の繁栄の基礎を築きました。お船の清水
山頂へ至る途中にお船の方が茶を点てたと伝わる「お船の清水」があります。山城の貴重な水資源であったと思われます。
お船は、与板城主直江景綱の娘で信綱の妻。後に兼続の妻となりました。兼続より3歳年上の大変聡明な女性で、終生兼続を支えました。
■北陸自動車道「中ノ島見附」ICより車20分
JR上越線、信越本線長岡駅、見附駅よりバス
八坂神社わき登り口より徒歩15分
城の一本杉
山頂の本丸跡にまつられた城山稲荷神社の前には、慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封を記念して兼続が植樹したという杉があります。この木は、現在、樹齢400年、根元周り6.6メートルの巨木となっています。また兼続の「望むところのこと信の一字」の碑があるのもこの近くです。
与板城大手門
与板城は幕末に火事により焼失しましたが、大手門は火災を逃れました。現在、浄土真宗本願寺派与板別院に移築されています。隣接する与板歴史民俗資料館には、直江兼続コーナーがあり、数々の歴史資料を見ることができます。また前庭には唯一の兼続像が立っています。