第1回 兼続のふるさと・南魚沼
豊かな田園風景、ゆったりと流れる清流魚野川…。日本の原風景が広がる美しい魚沼地方の政治経済の中心地、坂戸に直江兼続は生まれました。ここは日本屈指の豪雪地帯。一年の半分は身の丈に余るほどの深い雪で閉ざされ、豪雪地帯の暮らしを綴った鈴木牧之(すずきぼくし)の名作「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」が描かれた地でもあります。しかし、過酷な気候風土でありながら、古くから米作りや織物の名産地としても名を馳せ、大量の銀も産出するなど、富裕さを誇っていました。
坂戸は、魚野川がもたらす舟運と、三国峠、清水峠を経て関東とをつなぐ越後の玄関口という水陸交通の要衝に位置し、古くは六日町一帯が上田庄と呼ばれていました。その一角、坂戸山に居城を構える長尾政景は謙信と敵対していましたが、政景が折れて軍門に下り、謙信の姉・仙桃院を正室に迎えました。二人の間に生まれたのが、兼続が終生仕えることになる景勝です。
直江兼続の父・樋口兼豊は政景に仕え、身分の低い薪炭用人から家老にまでのぼりつめた人物です。政景が城内の銭淵で不慮の死を遂げると、仙桃院はわずか5歳の兼続の資質を見抜いて、10歳の景勝の小姓として起用。家族のいる家臣屋敷から離れて、御館と呼ばれる城主館へと移り住むのは、幼い兼続にとってどんなにか辛いことだったでしょう。しかし、兼続が思う存分その才能を発揮するには申し分のない環境が、そこにはありました。
少年時代の兼続と景勝が武芸の鍛錬に努めたのは、「越後の足利学校」と呼ばれる曹洞宗の禅寺・雲洞庵(うんとうあん)でした。学問の師である十三世住職通天存達(つうてんそんたつ)禅師の「国の成り立つは民の成り立つを以てす」という教えは兼続の心に深く刻まれ、兼続の兜の前立てに掲げた「愛」の文字はこの言葉に由来するといわれています。
坂戸山
坂戸山は、越後と関東を結ぶ交通の要衝で、古くから軍事上の重要な拠点でした。南北朝時代に新田氏によって坂戸城が築かれ、1512年に景勝の祖父・長尾房長(ながおふさなが)によって上田長尾氏の居城となり、景勝が上杉謙信の養子となって春日山に入ると、坂戸城は支城となりました。その後、景勝の会津移封とともに堀直寄(ほりなおより)の居城となるも、1610年に廃城となりました。現在、坂戸山には上杉景勝・直江兼続生誕碑や城主館跡などが残り、山頂には実城跡があり魚野川流域や上越国境の山々が一望できます。
◆新潟県南魚沼市坂戸
関越自動車道「六日町」ICより車10分
JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分
坂戸山と魚野川
日本一の魚沼米を産する一大穀倉地帯を控える坂戸山は標高634m。中世を代表する難攻不落の山城であった。城の東には五十沢川と三国川、西には魚野川が流れ、対岸には三国街道、清水街道がはしり、峠を越えれば十日町、上越方面につながる道が集中しました。坂戸山の山頂には実城、山麓には城主館跡の苔むした石垣などが残り、往時を物語っています。兼続は11歳までこの地に暮らしました。兼続は幼いころより父を手伝い田畑の仕事にも精を出したといわれますが、その体験と六日町盆地の自然風土から得たものが、後年著した農業指導書「四季農戒書」へと結実していったのかもしれません。
坂戸城跡
上田五十騎発祥の地
上田五十騎とは…
勇猛果敢な上田長尾氏の家臣団は上田衆と呼ばれていました。景勝が謙信の養子として春日山城に入る際、その中から50人の精鋭が選ばれ上田五十騎を編成。川中島の合戦の際にも謙信の率いた上杉軍中最強と恐れられ、必ず先陣を任されました。
■上杉景勝・直江兼続生誕地 |
■坂戸城家臣屋敷跡 |
コラム 兼続く エピソード1
長身にして眉目秀麗、度量、才気、言行共にすぐれていたという兼続。誰もが見惚れるような男ぶりだったといわれているにもかかわらず、兼続の肖像画は、後世の絵師が描いた、お世辞にも美男子とはいえないものばかり。その謎を歴史アナリストの外川淳氏は著書「直江兼続 戦国史上最強のナンバー2」(アスキー新書)で、「肖像画は、故人をしのぶため、没後に家族や家臣たちの証言にもとづいて絵師によって描かれた。(中略)兼続の肖像画が残らなかったのは、兼続の死後、直江家が断絶となり、直江家が存在しなかったことも影響しているだろう」と推察しています。
銭淵公園
長尾政景が非業の死を遂げた野尻池(銭淵)。かつて魚野川は坂戸山にぶつかり蛇行し、深い淵を作っていました。政景が心の底では謙信に屈しているわけではなかったことから、謙信による暗殺説が生まれた。現在は公園として整備されています。
雲洞庵
雲洞庵は、藤原氏ゆかりの尼寺として開かれたのち衰退し、室町時代に上杉憲実が曹洞宗の寺として開創し、越後一の寺といわれています。当時、武将の教育は禅寺が担っており、少年時代の景勝と兼続もまた、上杉家の菩提寺である雲洞庵で学びました。上杉謙信が師と仰いだ北高全祝(ほっこうぜんしゅく)と通天存達(つうてんそんたつ)禅師ら高僧から四書五経など中国の古典をはじめとする和漢の学問、兵法、武術を習得するとともに、高い教養と高潔な精神を養いました。北高全祝と通天存達の教えは景勝と兼続の精神形成に大きな影響を与え、兼続の兜の前立ての「愛」という文字は、通天存達の「仁愛」の教えによるものだといわれています。
◆新潟県南魚沼市雲洞660 電話025-782-0520
関越自動車道「塩沢石打」ICより車15分 上越新幹線「越後湯沢」駅から車30分
9時~15時30分 水休 拝観300円
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石畳の参道には法華経が一字一石ずつ刻まれ、踏みしめるとご利益があるといわれています。このことから「雲洞庵の土、踏んだか」という言葉が生まれました。
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本堂の建立は室町時代、江戸時代に再建されました。宝物殿には景勝公遺墨や武田信玄公書状などの古文書が展示されています。
樹齢300年の杉木立に囲まれた赤門。
追分
右は三国街道、左は清水街道へと至る追分。上杉謙信が軍道として整備し、関東遠征にも利用しました。
■関越道「六日町」ICから車で10分
鈴木牧之記念館
雪の学者として名作「北越雪譜」を著した鈴木牧之(すずきぼくし)の雪に関する資料を中心に、越後上布の製作工程なども展示。兼続らが幼少期を過ごした坂戸城絵図を所蔵。
◆南魚沼市塩沢1112番地2 電話025-782-9860
月・火休(祝日の場合、火・水曜) ※10月は月曜日のみ。冬期:12月29日~1月31日 一般個人500円/小・中・高生個人250円 9:00~16:30
JR上越線 塩沢駅より徒歩5分
関越自動車道 塩沢石打インターより車15分
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牧之通りにある「北越雪譜」の看板。雪の結晶の形が面白い。
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雪国ならではの雁木の商店街、牧之通り。江戸時代の三国街道の面影を残しています。
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南魚沼市役所前にある景勝・兼続主従のレリーフ。