「平清盛」の舞台を訪ねる旅
東山界隈でひときわ威風堂々とした佇まいを見せているのが、後白河上皇ゆかりの三十三間堂です。 正式名は、蓮華王院。東山七条の西にある天台宗の妙法院の境外寺院です。
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河上皇は、父・鳥羽上皇の崩御を契機に兄・崇徳上皇との間に起きた「保元の乱」に勝利。しかしわずか3年で二条天皇に位を譲り、藤原氏・源氏・平氏の三大勢力を調整する目的で、上皇として院政を行いました。
その舞台となったのが、上皇が離宮として建てた広大な法住寺殿でした。信仰心の篤い上皇はこの一角に千手観音の仏堂造営を思い立ち、権勢を誇った清盛に資財協力を命じました。平治の乱以後、後白河上皇に厚遇され始め、朝廷とのさらなる関係強化を目論んでいた清盛にとっては、まさに好都合の申し付けでした。
清盛によって、三十三間堂は長寛2年(1165年)完成。和様入母屋本瓦葺の本堂は、南北に118メートルと木造建築では世界一の長大さで、創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったといわれています。三十三間堂の名は、本堂正面の柱間が33あることに由来。33という数字は観音菩薩の変化身三十三身に基づく数字を表しているのだとか。
堂内には、本尊である「千手観音座像」(国宝)とその両側500体の千手観音立像、あわせて1001体の千手観音像、風神雷神像、二十八部衆立像などが安置されています。
端正な外観と相まって、堂内はおびただしい仏像が居並ぶ荘厳な世界…。
本堂の建物と仏像は国宝。建立して80年後に大火に会い焼失しましたが、後嵯峨天皇が再建。足利義教や豊臣秀吉・秀頼など、時の権力者たちが修復や寄進を行い、大切に保護してきました。毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩。
三十三間堂
京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
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方広寺の巨大な石垣(現在の大仏殿跡緑地)
桃山時代に三十三間堂の大修理を行ったのは、豊臣秀吉でした。文禄4年(1595)には三十三間堂の北側に、方広寺を建立し、巨大な大仏殿に奈良の大仏をもしのぐ高さ20メートルの大仏を安置していましたが、大地震により倒壊。その後も何度か再建と修復を繰り返しましたが、現在は本堂と大黒天堂、鐘楼のみが残っています。
方広寺に造った「国家安泰」という鐘名をめぐって、豊臣と徳川が対立したことが大坂夏の陣のきっかけとなり、豊臣家は滅亡しました。
京都市東山区正面通大和大路東入る茶屋町527
七条通、泉涌寺道、大和大路通、東山山麓に囲まれた広大な地域を占めていた法住寺殿は、後白河上皇が二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の5代、約30年にわたって院政を行った場所です。
梁塵秘抄を編纂するなど高い教養を持つ上皇でしたが、そのしたたかな老獪さは源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめたほど。
しかし、源頼朝に肩入れしたことが反感を買い、今度は義仲の焼き討ちに遭って離宮は焼失しました。すると源頼朝を利用して木曾義仲を討伐させ、六条御所「長講堂」で院政を再開させたのでした。
源平と渡り合い、朝廷を守り抜いた後白河上皇。法住寺の北には御陵があり、中央の法華堂には法体姿の像が安置されています。
京都市東山区法住寺三十三間堂廻り町655
法住寺左手の参道の奥が御陵。土日祝日は閉門されている。
祖谷渓(徳島県三好市)
幾重にも山が囲む深山幽谷の地、祖谷。伝説によると、讃岐屋島の戦いで源氏に敗れ生き残った平氏一族のうち、平国盛は安徳天皇を奉じ、手勢百余騎とともに陸路を山深い祖谷山の地にようやくたどり着いたとか。
祖谷には現在も平家ゆかりの史跡が、その面影を伝えています。なかでも有名なのが、国の重要有形民俗文化財に指定されているかずら橋。追手から逃れるためにいつでも切り離せるようにシラクチカズラで作ったといわれ、渓流より10数メートル上の高さに架けられています。
また平家の落人集落の伝説が残る落合集落は、高低差390mの急斜面にしがみつくような古い家々と石垣、棚田が広がる田園風景で、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されています。