「平清盛」の舞台を訪ねる旅
一年中観光客が絶えない京都の祇園・八坂地区。千年の都の、最も華やかで魅力的な場所が、実は平清盛とゆかりが深いということは、
意外と知られていません。
八坂神社の創建は656年。釈迦が説法したと伝わるインドの祇園精舎に由来し、明治維新まで祇園社と呼ばれ多くの信仰を集めました。
その門前町として開けたのが祇園です。
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、祇園に住んでいた女性を白河法皇が寵愛し、二人の間に生まれたのが清盛であったとか。祇園女御と呼ばれたその女性は後に平忠盛の妻となり、清盛を養育したといわれています。しかし、現在では祇園女御生母説は否定的で、清盛の生母は白河法皇に仕えた女官の一人と考えられています。その中には祇園女御の妹も含まれているとか。今となっては真実を知る由もありませんが、幼少期の清盛にとって祇園女御はかけがえのない存在だったようです。
一方で、いまだに清盛が白河法皇のご落胤だったという説が有力なのは、異例ともいえる清盛の出世の速さです。何らかの強力な後ろ盾がなければあり得ない、と多くの歴史学者が考えるのも当然かもしれません。謎が謎を呼ぶ、清盛の出生の秘密。歴史のロマンは尽きることがありません。
意外と知られていません。
八坂神社の創建は656年。釈迦が説法したと伝わるインドの祇園精舎に由来し、明治維新まで祇園社と呼ばれ多くの信仰を集めました。
その門前町として開けたのが祇園です。
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、祇園に住んでいた女性を白河法皇が寵愛し、二人の間に生まれたのが清盛であったとか。祇園女御と呼ばれたその女性は後に平忠盛の妻となり、清盛を養育したといわれています。しかし、現在では祇園女御生母説は否定的で、清盛の生母は白河法皇に仕えた女官の一人と考えられています。その中には祇園女御の妹も含まれているとか。今となっては真実を知る由もありませんが、幼少期の清盛にとって祇園女御はかけがえのない存在だったようです。
一方で、いまだに清盛が白河法皇のご落胤だったという説が有力なのは、異例ともいえる清盛の出世の速さです。何らかの強力な後ろ盾がなければあり得ない、と多くの歴史学者が考えるのも当然かもしれません。謎が謎を呼ぶ、清盛の出生の秘密。歴史のロマンは尽きることがありません。
地元の人から親しみをこめて「祇園さん」と呼ばれる八坂神社。『源平盛衰記』によると、参詣のために祇園社(現在の八坂神社)を訪れていた白河法皇が、門前の民家から出てきた祇園女御を見初めたのだとか。境内には、祇園女御のもとに通う白河法皇の隋臣を務めた清盛の父・平忠盛ゆかりの灯籠があり、また隣接する円山公園には祇園女御塚もあります。
八坂神社
京都市東山区祇園町北側625番地
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西桜門
朱色の西桜門をくぐって境内へ。
東大路をはさんで買物客でにぎわう四条通りを望む。
朱色の西桜門をくぐって境内へ。
東大路をはさんで買物客でにぎわう四条通りを望む。
本殿
奉納提灯がずらりと掲げられた舞殿越しに見えるのは本殿
奉納提灯がずらりと掲げられた舞殿越しに見えるのは本殿
祇園
「三千の寵愛一人のみなりけり」といわれるほど白河法皇に愛された祇園女御。
祇園女御が住んでいたという祇園は、京都随一の花町として発展。夜の帳と共にしっとりした
佇まいを見せます。
「三千の寵愛一人のみなりけり」といわれるほど白河法皇に愛された祇園女御。
祇園女御が住んでいたという祇園は、京都随一の花町として発展。夜の帳と共にしっとりした
佇まいを見せます。
湯西川(栃木県日光市湯西川)
壇ノ浦で入水、滅亡した平家一門。しかし清盛の孫・忠実らは逃げ延びて、下野国(現栃木県)の武将・藤原朝綱の元に身を寄せました。しかし、厳しい源氏の追っ手から逃れるために、さらに山深い湯西川の里に隠れ住みました。人々は落人集落の発覚を恐れて「五月でも鯉のぼりを上げない」「鳴き声をあげる鶏は飼わない」「米のとぎ汁は川に流さない」といったしきたりを守りながら、山の民としてひっそりと生き延びてきました。湯西川には平家ゆかりの塚が点在し、墓石に掘られた揚羽蝶の家紋が、平家のかくれ里であったことを物語っています。