第5回 コスモポリタン龍馬の活躍~長崎~
その背景には、商人的感覚と自由で物事にとらわれない性格、絶えることのない情熱と抜群の行動力がありました。さらに類まれなる好奇心でいち早く世界情勢を知り得る環境にもあり、情報分析力にすぐれ、先見性もありました。それらを礎に、商人としての才覚と独創性に磨きをかけて、幅広い人脈を駆使し巧みな交渉術で難問題に挑んだのでした。
そしてそれを可能にしたのが、当時日本で唯一、世界に開いていた長崎だったのです。オランダとの交易がおこなわれ、異文化を学ぶため全国から遊学生が集まった長崎は、最も進歩的で開明的な雰囲気に満ちていました。
かつて武市半平太は龍馬のことを「土佐にはあだたぬ男」(土佐のように狭いところには収まりきれない男)と評していましたが、長崎はまさにそんな龍馬にうってつけの場所だったのでしょう。龍馬の三大偉業といわれる亀山社中設立・薩長同盟・大政奉還はいずれもこの地があってこそ、実現できたのでした。
コラム 龍馬が長崎で過ごした時間
初めて長崎を訪れた元治元年(1865)から、最後に長崎で過ごした慶応3年(1867)までの3年間に、龍馬は12回長崎を訪れ、のべ10ヶ月間を過ごしています。心身ともに充実し、おりょうという伴侶も得て、最も充足した時期でした。ちなみに、33年間の人生のほとんどを旅に費やした龍馬は、土佐藩を脱藩してから亡くなるまでの5年間に4万6千キロ(およそ地球半周)を移動したとか。徒歩か馬、蒸気船しかなかった時代に、驚異的な行動力でした。
小曾根家邸跡
長崎滞在中の龍馬はほとんど、小曾根邸で過ごしていました。当主小曾根六佐衛門は大浦の居留地造成などで巨万の富を得た豪商。四男英四郎は龍馬のよき理解者で亀山社中の運営をバックアップし、後に亀山社中が土佐商会の傘下となり海援隊と改称してからも支援し、屋敷は海援隊の本拠地ともなりました。
長崎市万才町8-16
- 皓台寺
- 近藤長次郎の墓
寺が建ち並ぶ閑静な寺町にある小曾根家の菩提寺・皓台寺。小曾根家の墓所の傍らには、ユニオン号購入の報酬でイギリス留学を企て、盟約違反をとがめられて切腹した近藤長次郎の墓があり、龍馬が揮毫したと伝わる「梅花書屋氏墓」の文字が石碑に刻まれています。龍馬の死後、海援隊を中心に慰霊祭が行われたのもこの寺でした。
長崎市寺町1-1
長崎市油屋町2-41
日本茶を海外に輸出し莫大な利益を得た女傑として歴史に名を残している大浦慶もまた、志士達の活動を物心両面で支援した一人でした。龍馬とはイギリスの武器商人グラバーを介して出会いました。男勝りで気骨あふれる慶の姿に、龍馬は姉・乙女を重ねたのかもしれません。
医学や化学を学ぶ中で写真と出会い、文久2年(1862)故郷長崎で上野撮影局を開業し、日本初のプロカメラマンとなりました。坂本龍馬をはじめ長崎に集まった志士達の写真を数多く残しているほか、幕末の長崎を知る上で貴重な資料となる写真を撮影。桂浜の銅像のモデルになった湿板写真(高知県立歴史民族資料館蔵)の撮影者としても有名。その技術は高く、名声は海外にまで届き、撮影の依頼が絶えなかったとか。
- 彦馬と龍馬の像
- 眼鏡橋
眼鏡橋の脇に建つ龍馬と彦馬の像。眼鏡橋ができたのは寛永11年(1634)。現存する日本最古のアーチ型石橋。龍馬もこの橋を渡ったのでしょうか。
- 風頭山にある上野彦馬の墓
- 上野彦馬生誕地
コラム 風頭山から急坂を下って市街地へ
亀山社中がある風頭山から皓台寺墓地の脇を抜けて市街地に続く急坂は、幣振坂と呼ばれています。寛永14年(1637)諏訪神社の大鳥居を建てるとき、石材の風頭石を急峻な山から平地に運ぶために、人夫二千人の指揮をとるために御幣(ごへい)を振ったことに由来します。寺の墓地は斜面にはいつくばるように墓石を並べており、車道がないため墓石を運ぶためには現在も馬が使用されているとのこと。坂の街ならではの美しい景観の陰には、大変な苦労があるようです。
イギリスのジャーディン・マセソン商会の代理人として21才で着任したトーマス・ブレーク・グラバーは、当初は茶や生糸の取引を行う貿易商でしたが、間もなくグラバー商会を設立。倒幕運動に目を付け、雄藩に艦船や武器、弾薬を売り込みました。龍馬が薩長同盟を成功させることができたのも、亀山社中がグラバー商会から武器・弾薬を調達できたからでした。維新後、グラバーは武器取引から退き、高島炭鉱の運営に手腕を発揮し、岩崎弥太郎の片腕として三菱財閥の相談役を務めたほか、麒麟麦酒の基礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
グラバー邸
グラバー邸は文久3年(1863)に建てられた日本で最も古い木造洋風建築物。長崎港を見下ろす高台に広大な屋敷は、武器取引の舞台ともなりました。また集まってくる志士たちを匿うための隠し部屋も造られており、つながりの深さが伺えます。
長崎市南山手町8-1
コラム 国際人龍馬の本領
幅広い交友関係を最大の武器とした龍馬。必要とあれば、どんなところにでも出かけて誰とでも会い本音で語り合った龍馬の人脈には、勝海舟、松平春嶽、西郷隆盛、横井小楠、岩倉具視など幕末史を彩る錚々たる顔ぶれがそろいます。さらにグラバーやアーネスト・サトウなどの外国人もこのネットワークに名を連ねています。これを見るだけで龍馬がいかに藩や国、身分を超えたコスモポリタンであったかがわかります。龍馬自身、このことを強く意識していました。海援隊の規約には「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」とあり、龍馬の志を高らかに謳っていました。また、龍馬には一度会った人を惹きつけてやまない魅力があったといいます。大河ドラマ「龍馬伝」では、岩崎弥太郎に龍馬は人たらしであると語らせていますが、一介の浪人でありながら、とうとう国をも動かした人たらしぶりは見事としか言えません。
清風亭跡
長崎には時代に翻弄されつつも必死に討幕を果たそうとしていた志士たちの足跡が数多く残っています。仇敵であった土佐藩参政の後藤象二郎と龍馬の歴史的な会談が行われた料亭・清風亭、龍馬がつけた刀傷が残る料亭花月などは志士達の社交の場であり、酒を傾けながら夜を徹して語り合ったと思われます。またこれらの料亭から徒歩圏に土佐商会や後藤象二郎邸などがありました。
- 土佐商会跡
- 後藤象二郎邸跡
- 海軍伝習所跡
長崎湊が開港したのは元亀2年(1571年)、1隻のポルトガル船が停泊しました。以来、毎年のようにポルトガル船が訪れて、長崎港はポルトガル貿易港として発展しました。しかしキリスト教禁止令が発令され、市中にいたポルトガル人を隔離するために、寛永13年(1636)に海中に出島が造られました。ところが寛永14年(1637)に島原の乱が起こると、幕府はポルトガル人を追放。この時、幕府に忠誠を示したオランダが、貿易を独占。4年後にはオランダ商館が出島に建設され、以後、開国までの約218年間、出島は西欧に開かれた唯一の窓でした。
- 南蛮船来航の波止場跡
- 現在の出島
安政6年(1859)、横浜、函館に次いで開港された長崎は外国との自由貿易が盛んになり、東山手や南山手、大浦に外国の商人の住む家や活動拠点となる外国人居留地が造られ、明治32年(1899年)まで続きました。グラバー園は南山手のグラバー邸を中心に整備し、往時の面影がしのべる場所として、人気の観光スポットとなっています。園内には旧オルト住宅や日本初の西洋料理レストラン旧自由亭、旧三菱第二ドッグハウスなどの建物があります。
- 旧三菱第二ドックハウス
- 高島流和砲
- 西洋料理発祥の店の碑と像
グラバー邸で開かれた武器見本市。F.ベアトにより1864年に
撮影されたもので、当時の長崎港の様子も伺える貴重な写真。
長崎大学附属図書館のサイトに公開されている拡大写真は必見です。
長崎大学附属図書館所蔵
グラバー庭園のグラバーたち
Thomas Glover and Friends at Glover Garden
居留地時代、様々な国の商社や領事館、洋館が建ち並んでいた大浦海岸通り。東山手から南山手にかけては古い洋風建築が残り、街並みも異国情緒にあふれています。
- 大浦天主堂
- 旧香港上海銀行長崎支店記念館
- 旧長崎税関下り松派出所
- 大浦東山手居留地跡
- 旧長崎英国領事館
- 湊会所跡
- オランダ坂
- 山手十三番館
- 山手十二番館
異文化を受け入れる長崎の柔軟性は、トルコライスというユニークな郷土料理を生みだしました。ひと皿にピラフとカツ、ナポリタンが同居した摩訶不思議な料理は、歴史も謎に満ちています。特産のざぼん、茂木びわは素朴で爽やか。
- トルコライス
- ざぼん
- 茂木びわ