第4回 日本の夜明けを夢見て~長崎~
そのことが結果的に、龍馬を大きな歴史舞台へと立たせることになったのは、なんとも皮肉としか言いようがありません。 勝は海軍塾の塾生と龍馬の保護を薩摩藩の西郷吉之助に依頼。慶応元年(1865)、大坂薩摩藩邸に身を潜めていた龍馬ら一行は、薩摩藩船「胡蝶丸」に乗って薩摩に向かい、やがて長崎を目指しました。そこには本当の意味での龍馬の大仕事が待ち受けていたのでした。
西郷や小松と共に薩摩にやってきた龍馬たちが目にしたのは、溶鉱炉や紡績工場、造船所、ガラス工場など、当時としては最先端の工業設備でした。また将来の交易を見据えた人材育成にも力を注いでおり、薩摩藩重役の大久保利通、小松帯刀の先見性は、龍馬を大いに感動させたと思われます。
殖産興業に情熱を傾けた島津斉彬が造らせた工場群、尚古集成館。現在、機械工場が博物館として残されています。
原爆投下前の写真と現在の福済寺
■福済寺 長崎市筑後町
龍馬通りから亀山社中跡へ
急勾配の坂や石段の細道が続く。
いろんな龍馬さんが道案内してくれる龍馬通り
■亀山社中記念館
老朽化した建物を改修・復元。建物の中には龍馬のピストルやブーツ、きものなどのレプリカが展示されています。近くには「龍馬のぶーつ」のモニュメントなどもあります。
長崎市伊良林2-7-24
風頭山(かざがしらやま)
坂本龍馬ゆかりの史跡が多い風頭山周辺。山頂には、遥かかなたを見つめる龍馬像があり、その足元には司馬遼太郎の「龍馬がゆく」文学碑などがあります。
長崎市街地、長崎港が展望できる絶景の場所。
「龍馬がゆく」文学碑
風頭山からの眺望
志士たちも参拝したと伝わる若宮稲荷神社には高さ1メートの可愛い龍馬像が。風頭山山頂の像の原像。
亀山焼
龍馬伝館に展示されている古い亀山焼。
亀山社中の名前の由来となった「亀山」は地名。この近くに御用陶器の亀山焼の窯元があり、龍馬も愛用したと言われています。
コラム 龍馬の本領を発揮した薩長同盟
龍馬の業績の中でも最も高く評価されているのが、薩長同盟です。討幕思想では共通していたものの、公武合体派の薩摩と尊攘派の長州の根深かった確執を解き、軍事協力を約した盟約を締結させました。これによって両藩は連携を深め、討幕への動きが加速したと言われています。こんな歴史的な同盟を成功させたのは、龍馬のずば抜けた交渉力の賜物でした。物事の本質にズバリ切り込む商人の感覚と、柔軟で自由な発想、広範な人脈は、龍馬の最大の武器といえます。「いろは丸事件」「イカルス号事件」などの試練も、龍馬はこれらの本領を発揮して見事に乗り越えていきました。
聖福寺(しょうふくじ)
通称赤寺。慶応3年(1867)、坂本龍馬率いる海援隊が伊予大洲藩から借りた「いろは丸」と、紀州藩の「明光丸」とが衝突し、いろは丸が沈没。龍馬は天下の御三家紀州藩を相手取り賠償を求めて交渉を重ね、支払いに同意させました。そのとき土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎との会談の舞台となりました。
■聖福寺 長崎市玉園町3-77
丸山界隈
龍馬が長崎を訪れた頃、丸山は花街として栄えていました。丸山の入り口にはかつては川の上に橋がかかり、旦那衆が花街に行くか戻るか思案したのだとか。また海援隊士や岩崎弥太郎が杯を重ねた料亭花月もこの界隈にあります。
丸山公園の龍馬像
思案橋
慶応3年(1867)、長崎の花街・丸山の路上で英国軍艦イカルス号の水夫2人が殺害され、海援隊士に嫌疑がかかり、隊長である龍馬も取り調べを受けました。明治になって福岡藩士の犯行であったことが判明しました。
イカルス号遭難事件の現場
丸山町界隈