「軍師官兵衛」多彩な魅力と足跡を訪ねて
秀吉の天下統一の礎となった中国大返し
織田信長が美濃の斎藤氏を滅ぼした永禄10年(1567)、官兵衛は家督を継いで姫路城主となり、小寺氏の家老に任ぜられました。時は群雄割拠の戦国時代。この乱世を生き抜くには、卓抜した先見の明と知略が必要でした。織田と毛利が覇権を争うなか、板挟みになっていた主家・小寺氏存亡のために、官兵衛は、いち早く「天下布武」掲げて天下統一に乗り出し破竹の勢いの織田方につくことを進言。小寺氏の使者として信長に謁見して信頼を獲得し、秀吉の与力となりました。
また、中国攻めの拠点にするため居城である姫路城を、秀吉に惜しげもなく明け渡し、数々の戦功をあげました。その後、小寺氏が陣営から離脱、出奔すると、官兵衛は秀吉の直臣となり、鳥取城での兵糧攻め、備中高松城の水攻めなど、次々に奇策を展開し、織田方に勝利をもたらしました。
なかでも官兵衛の名を決定的に高めたのが、「中国大返し」でした。本能寺の変で信長が家臣の明智光秀によって暗殺されると、備中毛利氏との戦いにあった秀吉に、速やかに和睦を取りまとめるよう進言。
茫然自失となった秀吉に「さてさて天の加護を得させ給ひ。もはや御心の儘なりたり」と官兵衛がささやいたとも言われています。秀吉はすぐさま主君の仇明智光秀を討つため、わずか10日間で京に向けて全軍を大移動させると、山崎の戦いで光秀軍を粉砕しました。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの距離は約200 km。
このときの行軍は、当時としては異例の速さでした。信長の筆頭家老・柴田勝家らに先んじて弔い合戦を制し、実質的な後継者の座を手に入れることこそ、天下人となる道を切り開く契機であることを官兵衛は示唆し、全力で支え導いたのでした。
賤ヶ岳から琵琶湖を望む
滋賀県長浜市
天正11年(1583年)、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳で羽柴秀吉と柴田勝家と戦い、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の継承者となることを決定づけた。
賤ヶ岳は滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)にある標高421 mの山で、山頂からは、余呉湖、琵琶湖、竹生島、伊吹山などの絶景が見渡せる。
滋賀県長浜市
天正11年(1583年)、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳で羽柴秀吉と柴田勝家と戦い、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の継承者となることを決定づけた。
賤ヶ岳は滋賀県長浜市(旧伊香郡木之本町)にある標高421 mの山で、山頂からは、余呉湖、琵琶湖、竹生島、伊吹山などの絶景が見渡せる。
戦わずして勝つ
軍師としてさまざまな策略を巡らせた官兵衛は、50数年の生涯で一度も戦に負けたことがありませんでした。その一方で、できる限り血を流さずに勝つことを信条としていたといわれています。賤ヶ岳の戦いで圧勝し中国地方を平定した秀吉の前に、天正13年(1585)に四国を制圧した長宗我部元親が立ちはだかります。元親は、秀吉への対決姿勢を強める徳川家康や、秀吉に不満を抱く柴田勝家とも手を結んでおり、天下統一を成し遂げるには何としても一掃すべき存在でした。秀吉は総勢11万の大軍を上陸させ、熾烈な四国攻めを展開。一方、元親側は約3万の兵力で果敢で応戦しました。
官兵衛は地形と備えを見て元親の策を看破し、敵味方双方の消耗を最小限にとどめる戦術を講じます。たとえば山城の弱点である水断ちをして追い詰めたり、また高い櫓を組み鬨の声を上げて動揺させたり、次々に奇策を展開し降伏に導きました。まさに知略の勝利でした。