「軍師官兵衛」多彩な魅力と足跡を訪ねて
黒田官兵衛のルーツとは
黒田官兵衛の祖先は近江源氏といわれ、備前・福岡を経て放浪の末に、祖父・重隆の代に播磨の姫路に根を下ろしたといわれています。重隆には商才がありました。広峯神社の神主の勧めもあり、神社発行の御札とともに家伝の目薬を売って財を成し、さらにその金を元手に金貸しを営み、小豪族へと発展。戦国の世を巧みに生き、ささやかな成功を手にしました。
機に聡い重隆はちょうどその頃、播磨中部で勢力を揮っていた小寺氏の傘下に入ることを決意。群雄割拠の時代、それは大きな賭けでしたが、その判断が黒田家飛躍のきっかけとなりました。小寺政職は黒田家を重用し重隆、職隆を家老に引き上げ、有力支城の姫路城を与えたのです。
軍師としての才能、開花間近
天文15年(1546)11月29日辰の刻、雲が覆った姫路城に元気な男児の産声が響き渡りました。秀吉の天下取りを支え、天才軍師と謳われた黒田官兵衛の誕生です。
父は御着城主の小寺氏に仕える家老・黒田職隆。母は歌道を嗜む文人の血筋を引いていました。
7才で浄土宗の円満坊という僧より読み書きの手ほどきを受けるようになった官兵衛ですが、腕白盛りの当初は武芸を好み弓矢や乗馬の稽古に没頭したといいます。
14歳で母を失うと、その哀しみを埋めるように官兵衛は母の愛した和歌や連歌にのめり込んだのでした。その様子を見て父・職隆は困り果て、円満坊に相談。その後は円満坊のとりなしもあって、再び見違えるように武芸に励み、数々の兵書を読破したといいます。天才軍師呼ばれた官兵衛も、人の子。思春期の揺れ動く心情がよく表れているエピソードです。
16歳。武将としての自覚が芽生えた官兵衛は、鷹狩のために姫路城に立ち寄った御着城主の小寺政職の目に留まり、近習として仕えることになりました。
80石を授かり元服を果たした官兵衛は、22歳で政職の姪にあたる志方城主櫛橋氏の娘・光と結婚し、黒田家の家督を相続。
同時に父・職隆は隠居。群を抜いた聡明さは藩主の信頼を得るに十分で、若くして姫路城主となり、家老としての地位も父職隆から継承しました。
しかし官兵衛の本当の能力はまだ眠ったまま。戦国の三英傑−信長・秀吉・家康にも一目を置かれた天才軍師として活躍するには、いましばらくの時間が必要でした。
広峯神社
黒田家発展の礎となった場所で、奈良時代から続く古社は、京都祇園の八坂神社の本社とも言われる由緒ある神社。
敷地内には、二軒のみが当時の面影を僅かに残し、かつて「広峰三十四坊」と呼ばれた御師屋敷跡の土塀が風情ある佇まいで残っている。
姫路城
黒田官兵衛生誕地といわれている。重隆・職隆・官兵衛の黒田家3代が城主を務めた。官兵衛は14代城主。
1346年(貞和2年)に赤松貞範が、砦や館のような小規模な城を建てたのが始まり。
現在の壮麗な姫路城は関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって拡張されたもの。
別名白鷺城と呼ばれる美しい城は、世界遺産にも登録されている。