「江 姫たちの戦国」を辿って
政略結婚の果てに非業の死を迎えたお市の方の凛とした生き方は、三姉妹の生涯にも大きな影響を及ぼしました。
なかでも、長女・茶々は、両親の敵である秀吉を憎みながらも側室となって世継ぎの秀頼をもうけ、豊臣家と共に果てるという皮肉な生涯を送りました。
しかし、それは秀吉に屈したからではなく、茶々流の信念に基づいた選択でした。わずか15歳で2度もの落城を経験するという過酷な運命を背負った茶々だからこそ、絶大な権力をほしいままにした秀吉に惹かれたといえるでしょう。
それがたとえ、両親を死に追いやった敵であったとしても…。
秀吉が亡くなると、関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が開かれ、豊臣と徳川が対立。
茶々と江は、江の娘・千姫を秀頼に嫁がせることで両家の関係修復に努めますが、一度狂った歴史の歯車を止めることはできませんでした。
結局、茶々は最後まで秀頼を天下人にすることに執着し、初の説得や家康の懐柔をはね付け、豊臣家滅亡と共に果てたのでした。
誇り高く生きた母・お市の方、激しい気性で自らの生き方を選んだ姉・茶々、そして秀吉に翻弄されながらも逞しく乱世を生きた妹・江。そんな浅井家の女たちの中では、初の人生は比較的穏やかでした。
初が秀吉の命によって嫁いだのは、秀吉の側室・京極竜子の弟で、父・浅井長政の姉の子でもある京極高次。
近江の名門・京極家の子孫とはいえ、高次は時勢を読むことに疎く、明智光秀や柴田勝家に味方して秀吉に追われる身になったこともありました。
姉・京極竜子の懇願によって命を救われ、さらに初と結婚することで出世の糸口をつかみました。
秀吉亡き後、高次は関ヶ原の戦いを契機に、豊臣方を裏切って徳川方につき、若狭八万五千石を与えられました。
一方、初は家康の依頼で大阪城に入り、豊臣と徳川の和睦に尽力しました。
しかし、初の思いも虚しく、茶々は秀頼と共に大阪城で自刃。高次の没後、初は仏門に入り静かな余生を過ごしました。
大通寺
長浜御坊の名で親しまれている大通寺。威風堂々と参拝客を迎える総欅門の山門をくぐると、伏見城の遺構と伝わる本堂や大広間、長浜城の追手門を移築した脇門があります。
狩野山楽・山雪、円山応挙によって描かれた障壁も往時を物語っています。南北朝時代、安土桃山時代、江戸時代などさまざまな歴史が感じられる空間。
■長浜市元浜町32-9
大溝城址
織田信長が安土城を築いた頃、明智光秀の設計でできたといわれている水城。京極高次に初が嫁いだ翌年、秀吉より大溝城が与えられました。琵琶湖のほとりに立つ城跡には、苔むした石垣が残るのみ。
大溝城のある近江高島は、浅井氏ゆかりの小谷城や信長の安土城の対岸の方向。新婚の初はどのような思いで琵琶湖を眺めたのでしょうか。
■滋賀県高島市勝野
戦国姫君ときもの
鹿の子絞り(かのこしぼり)
絞り染めの一種で、その模様が小鹿の背の白い斑点のように見えることに由来。絞り染めは奈良時代にはすでに原型があったといわれ、正倉院には数々の絞り染めの染織品が残されています。
安土桃山時代に誕生した慶長小袖には、高度で複雑な技法を取り入れた絞り染めが施されています。本格的に発達したのは江戸時代になってから。
非常に手間のかかる高級品で、特に鹿の子絞りを全体に施した総鹿の子は、贅沢品として規制されることもあったといいます。
徳川美術館が所蔵する『本多平八郎絵屏風』には、葵紋を散らした鹿の子絞りの小袖を着た女性が描かれています。
衣服の豪華さと葵紋から、この女性が千姫であると推定されます。
千姫は徳川秀忠・江の娘で、七歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪城落城の際に救出され、本多平八郎と再婚しました。
画像は、現代の絞り染めの一例です。(2012年新作振袖 商品番号2012218 )
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