「江 姫たちの戦国」を辿って
応仁元年(1467)、応仁の乱で室町幕府が崩壊すると、実力主義の下剋上の世の中となり、約百年にわたる覇権争いが続きました。これがいわゆる戦国時代です。戦国大名の家に生まれた女性は政略結婚の犠牲となりながらも、誇り高く生き男たちを支え続けました。そんな時代を象徴するのが、お市の方と三人の姫、茶々、お初、江でした。
永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、美濃攻略に成功。その翌年には川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が激突しています。飛ぶ鳥を落とす勢いの信長は、「天下布武」の御旗を掲げ、妹・お市を浅井長政に嫁がせます。そこに生まれたのが後に秀吉の側室となった茶々、京極高次に嫁ぎ豊臣家と徳川家の和睦のために献身したお初、三代将軍家光の母となった江でした。
永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、美濃攻略に成功。その翌年には川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が激突しています。飛ぶ鳥を落とす勢いの信長は、「天下布武」の御旗を掲げ、妹・お市を浅井長政に嫁がせます。そこに生まれたのが後に秀吉の側室となった茶々、京極高次に嫁ぎ豊臣家と徳川家の和睦のために献身したお初、三代将軍家光の母となった江でした。
姉川古戦場
浅井長政の居城、小谷城があったのは北近江。琵琶湖がもたらす豊かな恵みと風情ある景観を誇るのどかな田園地帯の中に、かつて悲惨な戦いが繰り広げられた二つの古戦場が残っています。
そのひとつ、姉川の古戦場は、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が激戦を繰り広げたところ。それが元亀元年(1570)の姉川の合戦です。戦死者の鮮血で姉川が赤く染まったと語り継がれています。
そのひとつ、姉川の古戦場は、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が激戦を繰り広げたところ。それが元亀元年(1570)の姉川の合戦です。戦死者の鮮血で姉川が赤く染まったと語り継がれています。
賤ヶ岳古戦場
琵琶湖を一望する景勝地、賤ヶ岳もまた壮絶な戦いの舞台となりました。
姉川の戦いで信長に敗れ、追い詰められた長政が小谷城落城とともに自刃して10年。天正10年(1582)に、信長は本能寺の変によって明智光秀に滅ぼされました。
最大の庇護者である兄を失ったお市の方は、その年に織田家筆頭家老の柴田勝家と再婚。しかし、信長の後継を争った勝家と秀吉は、賤ヶ岳で激突。勝家側3万、秀吉側5万の兵が熾烈に戦い、秀吉が勝利しました。
姉川の戦いで信長に敗れ、追い詰められた長政が小谷城落城とともに自刃して10年。天正10年(1582)に、信長は本能寺の変によって明智光秀に滅ぼされました。
最大の庇護者である兄を失ったお市の方は、その年に織田家筆頭家老の柴田勝家と再婚。しかし、信長の後継を争った勝家と秀吉は、賤ヶ岳で激突。勝家側3万、秀吉側5万の兵が熾烈に戦い、秀吉が勝利しました。
戦国姫君ときもの
辻が花
室町時代後半に誕生し、桃山時代から江戸時代初期にかけて一斉を風靡した辻が花。絞り染めを中心に描き絵、摺り箔、刺繍などの技法を複雑に用いたといわれています。文献によると、16世紀末に豊臣秀吉が明国の使者へ、帰国時の餞別として辻が花を贈ったとか。
江戸時代には廃れ、現存するものはなく、幻の染といわれていましたが、最近になり、名匠・久保田一竹が再現復活。「一竹辻が花」と名付けられた作品は、美術的価値が高く、染織文化の最高峰と称えられています。
画像は現代の辻が花の一例です。(2012年新作振袖 商品番号2012215 )
「辻が花」に関するご用命、ご質問は鈴乃屋各店までお問い合わせください。