第3回 江戸、そして大奥へ
巽櫓(たつみやぐら)と桔梗濠(ききょうほり)
桔梗濠に影を落とす巽櫓。敵の攻撃に対処するために造られた櫓は20基あったといわれていますが、現在残るのは富士見櫓、伏見櫓とここだけ。東京駅から皇居に向かって直進した場所にあり、時代劇のような雰囲気を醸しています。
次期将軍家祥(いえさち)(後の家定)の正室として白羽の矢を立てられた篤姫でしたが、ペリー来航、十二代将軍家慶(いえよし)の薨去(こうきょ)、京都御所の焼失、さらに安政の大地震が江戸の町を襲い、篤姫の入輿(じゅよ)はたびたび延期されました。
ようやく情勢が整い、篤姫が江戸城に入ったのは、22歳のときのこと。しかし、そこから本当の意味で、将軍継嗣問題の密命を帯びた篤姫にとっての苦闘の日々が始まりました。
つわもの揃いの大奥の舵取りをする中、わずか1年半で夫・家定とは死別。十四代家茂の母として激動の時代を支えようとしますが、嫁・和宮との御風違いによる対立、さらに家茂の死、徳川幕府の終焉と、運命は篤姫に過酷な試練を与え続けたのでした。
(1)平川門
安政3年(1856)11月11日、薩摩藩渋谷藩邸を出発した篤姫の婚礼行列は、麻布、六本木、飯倉、日比谷を経て、この門から江戸城に入ったと伝えられています。壮大な行列は先頭が江戸城に着いても、末尾はまだ渋谷にあったとか。さらに調度品などの列が延々65日間も続いたといわれています。平川門は通常、奥女中の通用門として使われました。門前の木橋に昔が偲ばれます。
(2)江戸城天守閣跡
基礎石積みは44メートル四方、高さ18メートルの広大なもの。何度も火災を繰り返している江戸城ですが、天守閣もまた明暦の大火で消失し、再建されることはありませんでした。篤姫の時代にはすでに天主台のみの姿となっていました。
(3)大奥跡
大奥三千人といわれていますが、実際には千人位の女性たちがここに暮らしたと思われます。将軍と一部の役人以外の男性は足を踏み入れることができませんでした。働く女性たちは一生奉公が原則。身分の高い者ほど宿下がり(実家への帰省)が難しかったといわれています。
(4)北桔橋門(きたはねはしもん)
太田道灌が築城した折には、大手門だったといわれています。石垣には工事関係者を記す紋や銘が刻まれているのが、うっすらと見て取れ、歴史の流れを感じさせます。
(5)ペリー来航と砲台
1853年、ペリー艦隊の来航は幕府に危機感を募らせ、品川沖に6基の砲台を造らせました。都立台場公園には第3台場跡が残り、玉薬置き場や兵舎後の礎石が当時の面影を残しています。
◆東京都港区台場1-10-1(6)薩摩藩芝藩邸跡
江戸に着いた篤姫のすまいとなったのは、芝藩邸でした。ここには十一代将軍家斉の息女で、斉彬の正室・英姫が暮らしていました。NEC本社の敷地内に石碑があります。
◆東京都港区芝5-7-15(7)薩摩藩渋谷藩邸跡
海岸に近い芝や高輪の藩邸は異国船への不安があるため、薩摩藩は新たに渋谷藩邸を建設しました。安政の大地震で芝藩邸が大打撃を受けると、篤姫らは渋谷藩邸に移転。篤姫入與の際は、ここから江戸城に向かいました。現在は國學院大學や青山学院大学などが建ち並ぶ閑静な住宅街になっています。
◆東京都渋谷区東4-4
(8)大手門
江戸城の面影を残す皇居東御苑。一般に開放されており、この大手門のほか平川門、北桔橋門から入園証をもらって入れます。大手門は旧江戸城の正門で、本丸への諸大名の登城はここから行われました。江戸城の威容を伝える外枡形の重厚な造り。
(9)本丸跡
広大な芝生は、江戸城の中心であった本丸御殿跡。天主台側手前に御台所の居室や奥女中が住まう大奥がありました。それを銅塀で厳重に仕切って女子禁制の将軍の住む中奥(なかおく)、幕府の政務を執り行う表へと続いていました。
(10)中奥・大奥跡
表側から見た中奥・大奥の跡。
(11)大番所
位の高い与力や同心が詰めた検問所。
(12)梅林坂
太田道灌が梅を植えたことに由来。緩やかな坂の両側には紅白の梅の花が芳しく香ります。
(13)二重橋
皇居を象徴する橋。正門鉄橋と石橋の総称。奥に見えるのは伏見櫓。
(14)展望台
手前に白鳥濠、汐見坂。
平川濠越しに竹橋のビルディングが見えています。
御台所という女性の最高権力者にまでのぼりつめた篤姫でしたが、大奥での暮らしは決して平穏ではありませんでした。
陰謀渦巻く女の園で、本当の夫婦になれないままに夫に先立たれ、養父斉彬の慶喜を将軍継嗣にするという密命も果たすこともできませんでした。
その一方、時代の大波は徳川幕府崩壊に向けて刻々と迫っていました。それを感じながら、毅然として逆風の中を歩み続けたのでした。
尚古集成館所蔵
頭脳明晰で世情にも聡かったと伝えられる篤姫は、この時代の女性には珍しく数多くの手紙を残しています。力強く思い切りの良い筆跡が、篤姫の性格を物語っています。(写真提供/鹿児島市尚古集成館)