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第4回 江戸と京

京都御所を象徴する建礼門。この門を利用できるのは天皇陛下(最高位者)のみであった。

江戸

篤姫にとって安政5年(1858)は、あらゆる意味で劇的な年となりました。井伊直弼が大老となり、勅許を得ないまま幕府が日米修好通商条約を締結。外圧と尊王攘夷に揺れ幕府の弱体化が露呈する中、将軍家定が崩御し、そのわずか10日後には頼みとなる養父・島津斉彬も死去しました。落飾して天璋院と号するようになった篤姫は、徳川慶喜を将軍の後継にするという使命を果たせないまま、14代将軍家茂の義母となり大奥に留まることになりました。

小石川後楽園イメージ

小石川後楽園

水戸藩上屋敷に造られた、回遊式築山泉水庭園。小石川台地の地形が巧みに活かされた情趣ある庭は、2代光圀が完成させた。各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が表現されている。背後に見えるのは東京ドーム。
◆文京区後楽1-6-6

■円月橋
水面に映る様子が満月のように見えることから名付けられた。
円月橋イメージ
六義園イメージ

六義園

柳沢吉保の下屋敷に自ら設計、指揮し、造り上げた「回遊式築山泉水庭園」。小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられた。吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細な趣の庭は、儒教思想に彩られた小石川庭園とは対照的。
◆文京区本駒込6-16-3

浜離宮恩賜公園イメージ

浜離宮恩賜公園

潮入の池と二つの鴨場を持つ江戸時代の代表的な大名庭園。将軍家の別邸として幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成した。
◆中央区浜離宮庭園1-1

■潮入の池
都内唯一の海水の池。潮の干満によって変化する景色を楽しむことができる。背後に見えるのは汐留のビル群。
潮入の池イメージ
増上寺イメージ

増上寺

浄土宗の七大本山の一つ。浄土宗正統根本念仏道場として創建された。徳川家の菩提寺として、寺運は大隆盛した。境内には2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の、6人の将軍とその正室、側室などの墓所がある(非公開)。大殿の背後に東京タワーが見える。
◆港区芝公園4-7-35

山門イメージ
■山門
都内最古の建築物で、江戸初期の面影を残している。正式名称は三解脱門。

子育て地蔵尊イメージ

■子育て地蔵尊

寛永寺イメージ

寛永寺

天台宗関東総本山。芝増上寺とともに将軍家の菩提寺で4代家綱、5代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の墓がある。寺内には鳥羽伏見の役で謹慎となった慶喜が蟄居した葵の間もある。
◆台東区上野桜木1-14-11

徳川綱吉霊廟勅額門イメージ

■徳川綱吉霊廟勅額門

寛永寺五重塔イメージ

■寛永寺五重塔(上野公園内)

上野東照宮イメージ

上野東照宮

日本で唯一の金箔唐門の壮麗な造り。参道には195基の石灯篭が並ぶ。家康・吉宗・慶喜を祀る。境内のぼたん園は毎年5月に花盛りとなる。
◆台東区上野公園9-88

京都

家茂の正室として京より迎え入れたのは、仁孝天皇の第8皇女、和宮でした。
大奥独特の風習に順応していった篤姫に対して、御所風を持ち込むことにこだわった和宮側との「御風違い」からくる対立が、二人を取り巻く女中の間で起こりました。16歳の和宮に対して、姑の篤姫もまだ28歳という若さでしたが、陰謀渦巻く大奥で賢明な2人は難局を乗り越えていきました。
そして大奥の外でもまた、倒幕、開国に向けて時代は大きく動いていました。
公武合体の政略結婚だった家茂と和宮は円満な夫婦関係を築きましたが、それもつかの間、わずか4年では家茂が崩御。慶喜が第15代将軍となり、翌年には大政奉還へと至ります。
将軍継子をはじめとする薩摩藩の政略の犠牲となった篤姫、そして公武合体の犠牲となった和宮は、ともに徳川幕府に運命を翻弄された女たちといえます。
しかしこの2人が皮肉にも、幕府崩壊の瀬戸際に命がけで嘆願し、江戸市中を火の手から守り、徳川家を存続させたのでした。

東福寺嘉永6年イメージ

東福寺

嘉永6年(1853)、婚儀のため江戸に向かった篤姫一行は、薩摩藩邸に滞在し養父となる近衛家に参内、島津家の菩提寺でもある東福寺を参詣した。また東福寺は西郷隆盛と僧月照が密議を交わしたとされる茶室もあるなど、幕末には薩摩藩士の宿所のひとつとなった。鳥羽伏見の戦いでは薩軍の陣所となり、のちに西郷隆盛が亡くなった薩摩藩士のために石碑も建てている。

■京・薩摩藩邸跡
現在同志社大学のある一帯に、幕末の薩摩藩邸があった。近隣には篤姫が養女に入った近衛邸や小松帯刀の屋敷、薩摩藩とゆかりの深い相国寺があった。二本松薩摩藩邸の跡を示す石碑は、同志社大学の西側の門近くに立てられている。
京・薩摩藩邸跡イメージ1 京・薩摩藩邸跡イメージ2
宝鏡寺イメージ

宝鏡寺

百々(どど)御所とも言われる臨済宗系の尼門跡寺院で、百々御所とも呼ばれる。人形寺として有名。和宮は幼少の頃、たびたび訪れ境内の“鶴亀の庭”や貝合わせなどで遊び、経を唱えることもあったといわれ、和宮の遺品も保存されている。
◆京都市上京区寺之内通堀川東入

京都御苑イメージ

京都御苑

江戸時代200もの宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ町だったのを公園として整備。広大な敷地の中に京都御所や近衛家跡、橋本家跡などが点在する歴史の宝庫。
◆京都府京都市上京区京都御苑3

桂宮邸跡イメージ
■桂宮邸跡
将軍家茂に降嫁することになった和宮が1年8ヵ月住まわれた仮御殿。桂宮御殿よりおびただしい数の壮麗な行列を連ね、25日をかけて江戸へと下向した。現在は、京都御苑今出川御門付近に門のみが残っている。旧桂宮邸の御殿は、二条城本丸内に移築されている。
近衛邸跡イメージ
■近衛邸跡
近衛家は、平安の昔から常に貴族の最高位にあった家柄で、江戸末期まで多数の有力者を輩出している。島津斉彬の姉・郁姫が近衛忠煕の正室になったことなどから島津家とはゆかりがあった。篤姫は斉彬の養女を経て、忠煕の養女となって、将軍家に嫁いだ。現在は、この庭園しか残されていない。
橋本家跡イメージ
■橋本家跡
仁孝天皇の第八孝女として誕生した和宮だが、父は誕生前に崩御したため、生母・観行院の生家、橋本家で養育された。今出川御門付近にあった。
蛤御門イメージ
■蛤御門
元治元年(1864年)、長州藩と御所を守る幕府軍(会津藩と薩摩藩が中心)の間が蛤御門付近で激しい戦いを繰り広げた禁門の変があった。長州藩士が放った弾痕が生々しく残っている。
西郷隆盛像イメージ

西郷隆盛像

薩摩藩主島津斉彬に取り立てられ、篤姫の輿入れの際には嫁入り道具の調達を担当。徳川継子問題に奔走したほか、江戸城総攻撃では篤姫と対峙する勝海舟とともに江戸城無血開城を実現するなど、篤姫の運命に大きく関わった。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。
◆台東区上野公園5-20

有栖川公園イメージ

有栖川宮記念公園

忠臣蔵で有名な浅野家の下屋敷があった地。盛岡藩の下屋敷を経て、維新後に皇族有栖川宮家、高松宮家の御用地になった。園内には、公武合体により将軍家に嫁いだ和宮の元婚約者・有栖川宮熾仁親王騎馬像がある。
◆港区南麻布5-7-29

西郷南州・勝海舟会見の地イメージ

西郷南州・勝海舟会見の地

明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗。新政府軍の江戸城総攻撃を回避するため、勝海舟と西郷が江戸城の無血開城について田町の薩摩藩蔵屋敷において会見を行った。
◆港区芝5-33-8


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